5月16日:Twitterやめろ

 仕事が早く終わったからサイゼリヤ行こうと思って外出したんだけど、社用PCをおいて出てしまったので出先で退勤報告ができず、結局買い出しだけをして帰ってきてしまった。明日こそ...。

 とあるアカウントでTwitterを見ていると、具合の悪くなる話題が延々と流れ込んでくる。まだ、スピノザ『エチカ』に「深淵の迷宮『エチカ』」とかいうセンスのねー文章を付して紹介してしまうのはいいとして、ゲイカップルが代理母を使って子どもをもうけたという話を女性蔑視の話に接続して議論を進める筋道を見ていると胃が気持ち悪くなってくる。そもそも先端医療としての生殖医療を考えるとき、そこにある問題は出産の商業化そのものであり、“ゲイカップルが“女性を搾取するというところではない。もっと大きな問題から、そのうちに起きている一部をピックアップして、現在のトランスないし同性愛嫌悪に与させる議論に変質させることはとてつもなく不誠実だと思う。

 例えば、タイやインドなどのアジアだけではなく、ウクライナポーランド代理母大国である。これは経済的な中心と周辺のシステムに従っているものと考えられている*1。つまり、経済的格差によって「産まされているもの」と「産ませているもの」という関係が存在し、それは主体がゲイカップルであろうと、それ以外の裕福な夫婦であろうと同じ。そのうちから、自分の批判したい属性に合うものを選んできて、あたかもその属性を持つ人が搾取をしているかのように論うのは卑怯だ。しかも、代理母問題も一枚岩ではない。経済的格差、という事実に依ってだけ、代理母となる人が「搾取されている」とみなすのもまた暴論だ。子を産むことそれ自体が善とされ、本人のよろこびである、という文化的な規定要素もそこには存在する*2。かつて、アフリカのある地域が割礼儀式の批判を長らく受けていたが、血縁によって割礼儀式を実際に受けた人類学者は、「割礼は苦しくて痛く、そして捨てるべき文化のように言われているけれど、その根拠が薄い。女性の力*3を象徴する表現する儀式である」(大意)*4と主張した。この議論がうまく決着したかは今は触れない。ともかく、このように、他者の文化を見る際には、自分の“まなざし“をよく反省した方がいいということは、難しい議論をするときだけではなく、日常でも同じだとおもう。もっというと、“センスがねー“とか、“不誠実だ“とか、“卑怯だ“とか、こういう物言いが何を前提としているのか、ということをもっと考える必要がある。さて、今日はもう終わり。

*1:柳原良江「フェミニズムの権利論」『平等の哲学入門』(社会評論社, 2017)

*2:確かインドにおいてこの考え方が顕著であったと記憶しているが、私の記憶でしかないため、裏取りは読者自身によってしてもらいたい

*3:私には、それがなんであるのかはよくわからないが。

*4:吉田敬『社会科学の哲学入門』(勁草書房,2021), p. 138-9