3月28日:F・U・C・K

 死ね,死ね,死ね死ね死ね死ね死んじまえ 黄色いブタめをやっつけろ

 金で心を 汚してしまえ 死ね 死ね 死ね 死ね 死ね死ね死ね死ね死ね

 日本人は 邪魔っけだ

 黄色い日本ぶっ潰せ 死ね死ね死ね 死ね死ね死ね

 世界の地図から 消しちまえ 死ね

愛の戦士 レインボーマン より『死ね死ね団のテーマ』

 この歌は,1970年代前半に東宝が制作して放映されていた『愛の戦士レインボーマン』の敵組織のテーマソングだ。その約30年後,この『死ね死ね団のテーマ』は”おもしろフラッシュ”に転用され,歌詞をイメージして当時の政治家たちをコラージュした動画として再び当時の子どもである私の目に触れることとなった。私は,「大人がこんなにまじめに『死ね』なんて言ってるよ」と感動した。そのころから,パンクなものを好む気質があったのかもしれない。とにかく,普段は禁忌ともされている「死ね」という言葉が,それを禁止する大人たちによって呈示され,しかもなにかしらのエンターテインメントとして成立しているということがなぜかうれしかったのである。
 「死ね」という言葉は,短く,そして強い。相手の命に言及する究極的な言葉だ。そのはずなのに,一度も言ったことがないという人は珍しかろうと思う。それくらい子どもの頃は身の回りの友人も,親も言っていたのである。ただ私は,「死ね」という言葉の強さが非常に不愉快だったから,選択的に言わないようにしていた。そこで,『死ね死ね団のテーマ』に出会ったのである。当時は小学3-4年生,父親が気まぐれでもたらしたPCとプリンタとインターネットが,私の精神を形成し始めのときだった。『死ね死ね団のテーマ』に痛く感動した私は,当時仲が良かった数人の友人にその歌詞を共有するために,歌詞カードを作成して印刷して数枚くばり,自分自身でもその感動を保持するために机に入れていた。
 住んでいた地域では,掃除の時間になると椅子を机にあげて,机といすを丸ごとすべて教室の後ろに移動させていた。そのとき,だれかが私の机をもちあげた拍子に歌詞カードを落としてしまった。そしてちょうど,担任が歌詞カードを拾い上げて,誰のだ誰のだと騒ぎ立てていた。たまたま教室に戻った私が,それは自分のものだというと,先生は「こんな”死ね”だなんて書いてあるものを印刷して学校に持ってくるんじゃありません」といった。だから,素朴に「僕が考えたものじゃない」といったようなことを言い返した。でも,めんどうごとは嫌いなので,とにかくもう持ってこないことを了承して,当時の友人にはもうすっかり持って帰るようにとこっそり言った。
 今,Xでは汚言症への”ご意見”が多くみられるようになっている。精神疾患のなかには,時代に相対的なものを伴っている症状があることはすでに知られている。例えば,統合失調患者の妄想症状が,かつては「カミ(神)」や「狐」のせいにしていたような事柄は,いまでは「電波」や「創価学会」のようなものに置き換わっている。いま”ご意見”が噴出しているものは,時代に相対的に,というよりも,相当長い時間,女性に対する抑圧が行われてきたことの表出である。その”ことば”は微視的に確かに脅威であるし,人々の平静をかき乱すようなものである。しかし,その症状の背景には,明らかに,平均的人間が形成してきた”時代”があるということを忘れてはいけない。彼らをバカにする人間は,常に自分の言葉が,自分自身を検める試金石となっていることに気づいていないのだ。
 いわゆる,”政治的に”正しい表現,俗にいうところのポリティカル・コレクトネスな表現(PC表現)が正当化される筋道のひとつとしては,そうした時代的背景が,個人の意図を無視して影響していると考えられることが挙げられる。しかし,言語学における語用論の分野で一部論者は,発話される語そのものに干渉しても意味はなく,その語が発される”意図”に着目しなければならない,という。個人的には,この立場に賛成である。個人が,特定の語をなす音・文字に不快な反応を覚えることに配慮し,”たとえどのような文脈・意図であれ”,特定の語を排除することは,それは人間の非常に古典的で単純な次元,すなわち,刺激-反応の次元で保有してしまった枠組みを保持し続けるということにもなるだろう。人間は,その刺激-反応を自らコントロールできる稀有な生物種であるから,むしろその刺激-反応だけの世界に人間を押し込んでおくことは,人間の精神性を侮辱する行為である,とさえ私は思う。ただし,ここにはいくらかの理性主義的な立場があることは自覚している。だから,この主張にすべてを回収するつもりはない。刺激-反応の次元は,生物である我々がもっとも普遍的に共有しているものだから,理性主義を前提としないのならば,そこに配慮したほうが良いこともある。ただ,他者の”妄想”や”汚言”を,妄想や汚言たらしめる構成要素をなしている私たちの多くは,自信や他人を刺激-反応の枠組みに押し込んでおく必要がないほどには,理性をもっているのではないかと思う。

 あーあ。『女子攻兵』の最終巻だけを読みなおしてこんなに泣くとは思わなかった。パンクスやメタル,ロックにはよく”汚言”が出てくる。『女子攻兵』にも,赤痢という広島出身パンクバンドの『FUCK』という曲が引用される。個人的に好きなバンド・曲で汚言が含まれているもの*1としてはPennywiseの『Fuck Authority』とか,System of a Downの『Fuck the System』とか....ボキャ貧か。Fuckの話だから,Fuckって言葉が含まれてる曲ばかり思いうかぶ。言葉の狭さは世界の狭さ。そういえば,Xで話題になっているものとしてはポルノコンテンツの言い換えが問題になっているけど,それも結局は語の表現にばかり注目して,意図に着目していないから生じている不毛な問題だと思う。でも,もし,あなたの世界から「殺害」とか「死」とか「暴力」とかがの意図すらなくされてしまったら,それは本当によいことだと思うだろうか?他者や自分以外の組織が持つ「殺害」「死」「凌辱」などの恐ろしい意図を伴うことばを,自分だけが知らなかったら?割を食うのは誰なのかは火を見るよりも明らかだろう。

 そういえば,精神疾患をしばしば見ていると,破瓜して症状が深刻化していったり,苦しみに悶えている人たちが,急にキリスト教の聖書や,日蓮大聖人の仏法を引き始めることが観察される。これは,おそらく苦難の中で”救い”を求め,そこに根拠がなかろうとも,巨大コンテンツが自分に”救い”の感覚が与えられることへの快楽がそうさせていくのではないかと思う。聖書などの宗教的文献は,部分部分では説得的な箴言集として利用できるし,その宗教自体が広く知られているものならば,誰かとの”つながり”を形成することもできる。実存分析,ロゴセラピーを創始したV. E. フランクルは,精神科医は非宗教的な牧師になる必要があるというようなことを言っていた。かつては人間に生きる方向性をある程度提示してくれていた伝統,宗教が弱体化してしまい,虚無感がそこに横たわったと感じられる人たちにあっては,その人たち自身が生きる意味を見出せるように,そしてその意味自体には干渉しないように手伝う必要があるという主張だ。私は,その通りだ,と思う

 私は長らく,無神論の立場にいて,一時期は新無神論に立った。しかし,たしかに,たしかに,たしかに,たしかに,病室で患者が壁を見て神に祈るときにもそこで最善を尽くしているのは科学である。それは揺るがない,しかし,患者の生を規定するものは科学だけではない。それもたしか,ほんとうにたしかなのだ。私はたまたま,多くを科学から転用して,しばしば無味乾燥ともいわれる科学的発見を詩的に再解釈することができている。例えば,『看取られたい』のブログのときもそうだ。私たちは死後も世界に物質として循環するし,あるいはまた誰かの一部として,意識を為すような構成にいたるかもしれない。そこには,宗教的なものを前提としない輪廻転生のようなものを見出すことができよう。あるいは,人々がみる虹には何一つ同じものがない,ということも。それは,単純に雨粒が反射するスペクトルの範囲で説明されるものだが,これを,私たちそれぞれが生きて,世界を見る意味があるというナラティブにすることだってできる。私たちは宗教を不要とする準備ができている。後ここに残っているのは,私たちがそれぞれの自由意志でなにを選択するのか,だけである。おそらく,科学以上に,この世界のまともなモデルを作る方法論は存在することはかなり難しい*2。そう考えることが,本当にたまたまできているにすぎない。

 

 

*1:むしろないほうがめずらしい

*2:ただし,これはいわゆる,"最良の科学理論"と呼ばれる世界観に依存する