3月11日:震災の話。

 ミソサザイの鳴き声で起きる。そしてひたすら淡々と仕事をする。今日はいつもより早く起きたから,時間をかけてコーヒーを大量に作って個人用のポットに1.6リットル分淹れた。カフェインさえ取れれば味は気にしていないんだけど,ここ数日は冷蔵庫にコーヒーポットのまま放置したものをついで飲んでいたので,淹れたてはおいしく感じた。Steve Reichの"Drumming"を聴く。この曲はすぐにゾーンに入れる。言語学オリンピックのテキストを脳の体操で解いて,時間があったのでちょっと数学もできた。ミソサザイのさえずりも聞けて,楽しい朝だった。
 仕事を淡々とする。今日は東日本大震災から13年も経過した。筆者は,震災当時中学2~3年生で,冗談を交えながら皆を取り仕切って机の下に隠れさせ,ドアの歪みを考慮して担任の理科教師と開けに行き,自分も近くの机に潜った。その当時は14, 5歳だっただろう。その約7年後に,私は地質調査の仕事で被災地の閖上漁港付近に行った。震災当時から人並みの正義感に駆られていた私は,赤十字に募金したし,あの現状に心を痛めていたはずであった。しかし,ある時からそれは薄れていき,特に高校生時点ではエボラ出血熱の流行に気を取られ,医療機械に搭載する小型分散型電源のアイデアを洗練するのに夢中だった。しかし夢は破れ,たまたま地質調査の仕事にあずかって,閖上に臨場したのだ。まず,到着したのは仙台駅。そこからレンタカーで名取市に向かい,宿に入る。ずいぶんそこまでは綺麗だったので,東北の被災地に仕事をしに来ているという意識はなかった。宿で一泊し,仕事の準備をする。その日は,電気を用いた探査をするので,コイル,コード,必要なものを検め,車に乗った。
 現場に近づくにつれ,視界が開けていく。当時すでに日本のあちこちに行って仕事をしていたものだから,ある種の直観というのがなまじ養われていた。「あれ?!町が薄くないか!?」そう思った。そして,ある個所から急速に建物は消滅し,目の前に閖上の『祈りの広場』と『芽生えの塔』が見えた。恥ずかしいことに,そこで初めて私はここが被災地であり,その再建にかかわる業務であることがわかった。一棟だけ立つ特徴的なレンガ作りの建物に,津波の傷が強く残っていた。震災から7年たっても,閖上は真っ平だったのだ。そして今でさえ,復興は続いている。復興が続いている中でも,新たな災害が起こる。私はあれからまた職を転々として,建設に関係するコンサルタンティング業に与していて,ハザードマップの作成業務が行われている様子もよく見る。それらを踏まえて,やはり普段から生きる力というものを身に着けておくことが大事だということが実感される。嫌確かに,もちろん備蓄する,非常用バッグなど,そういう道具をそろえることは大事だ。でも,現代で最も忘れられているのは生存のテクニックであるだろう,と私は思う。ハザードマップで危険でないところに,どのような不確定要素による危険があるかはわからない,結局,私たちの生存は私たちのその場の判断にゆだねられることも多いのだ。地図が教えてくれるのは,地形と,リスクだけである。しかしそこに置かれるのは私たち自身である。もちろん,国の補償や助けも来るが,まずは,可能であれば,心身ともに健康であれば,災害に直面した際に役立つ知識を普段から身に着け,小さなところでこまめに実践しておくのが大事だと思う。もしかしたら,登山好きの私だから与えられる観点なのかもしれない。登山における遭難の知識は,十分に災害に応用できる。忙しい諸氏には難しいこともあるかもしれないが,2か月に一度くらい”被災したつもりで自宅待機”という生活をしてみるのも,ある程度有益なエンターテインメントであり,実際の災害の心構えもできるという点でよいのではないか,と思う。