5月29日番外編:孤独に祈って

 自分の歴史は自分にいつまでもついて回る。これまで何度も書いてきたけど、一人の人間はそれ自体で“歴史“だ。その人が認識してもしていなくても、その人の行為とその結果はいつまでもついて回る。世界の歴史と同じように、「何が原因で、何が結果なのか」なんて分らないことも多い。ただ起きたこと、やったことが、無慈悲にもその人と結びついて、一生ついて回る。私は自己耽溺を繰り返し書いてきたが、自分を愛すことがずっとできないし、これからもできないだろう。早く破滅してしまえばいいと思うからこそ、自分以外の誰かを幸せにするとか愛されるとか、実は自分が幸せになるとか愛されることの代償をしようとしているんじゃないかと思うことさえある。私はいつまでも自分を愛せていない。正直、外も中も醜いと思う。感情的にはずっとそうだ。「感情的には」と付け加えたのは、この自己分析は、他の人から見た私の「現れ」から照合しようとすると齟齬が生じている、つまり、私は自分を醜いなどと言うが他人からはむしろナルシズムを抱えているように見えるのではないか、と思っているからだ。端的に言えば私は、自己肯定感がない、ということをそのまま表現するのではなく、むしろ自分が自分を愛しているかのように振る舞うことで、自己肯定感のなさの自覚から身を守っているのではないかと思う。自殺の問題と同様に、自己肯定感のなさはついてまわっている。この“原因“(!)はよく分らない。考えられるのは、自分の子どもの頃の体験。でも、因果関係が本当にそうかと言われたら、確かに最善の説明ではあるけども、その幼少期の体験にだけ今の全ての責任を押し付けるのも何か違う気がする。何も分らなくなっちゃった。綺麗に生きたいんだけど、「黄金の心」*1を探しているんだけど、そんなことをしてていいのか、私は何をやってるのか、本当にわからない。そもそも生命に目的がなくて、生命そのものに目的意識を持つなんてのは人間だけだと思うから、ある意味これも一つの生き方なのかもしれない。そのうち、自分のもたらす帰結に耐えられなくなるかもしれない可能性も含めて。他の生き方に変えられるのかな。生き方って変えられるのかな。私が「救われたい」と思う時、もしかしたらそれは「死にたい」、じゃなくて、「生き方を変えたい」なのかもしれない。死は救いではない。でも、今から変えられたとしても、きっと私はずっと孤独の旅路を生きることになるだろうね。いや、なんにもわかんないや。

*1:自分の気持ちを書くところなのに、誰かが作った歌の言葉を使うのはすごくダサい。でも、ニール・ヤングの『Heart of Gold』https://youtu.be/iBeoFqDDW2wの歌詞は、すごく共感できるものであるから、大事にしている。