6月1日:咬合

 歯医者さんで「噛み合わせどうですか」と聞かれた時、いかに自分が普段の“噛み合わせ“を気にしていないかを思い知らされる。これと同じように、いざ疑問として提示されると、今までわかっていなかったこともわかっていたかのように、何かしら回答しなくてはと思ってしまう。全ての人間の混乱は、「前提が元々わかっていないにも関わらず、発展的な議論を進めてしまう」ことによって生じている。でも、全てを遡れば、何かしらの「疑いようのない前提」にたどり着けるというわけでもない*1。わからないことにわからないことが乗っかってきている。「噛み合わせどうですか」は、その一例と言える。

 「久しぶり!メールありがトン🐖まず、『生きるとはなんですか』ヵら始めちゃうタイプなんだょね。。。ツーカ、いつもなんかめちゃなやんぢゃうし、それがどーしてかもわかんないテキなやつ。でもそんなことしてたらぜんぜnすすまなぃし、もーほんとつら。コツキより🧡」「それなすぎ。漏れもコツキのスツモンにウツになってきた...('A' )」「ほんとさぁ、ドクオっていつもウツだよね、どうにかなんないの?藁」「おまいみたいな香具師にはわからんと思う('A' )逝ってよし。」「じゃあさぁ、死にたいのはわかったケド、生きるって何?」「シラネ....('A')漏れに聞くな神にでもきけ」「ゃめてくんね藁 “神“なんているの?」「イネーヨ('A')」「じゃぁなんでその人に聞くの🤭 そんでさぁ、これ書いてて思わないの?オタクに優しいギャルっぽい女の人がいて、それを頭の悪そうな文章で書き分けて、そんで、その人がそっけなくて、うだつの上がらない人に対してまっすぐ向き合って話を聞くみたいなのは、とっくに使い古されたありがちなスキーマなんだ、って。ドクオさあ、いい加減に自分を解放してあげたら?あなたは人のことを助けても、そのままじゃ自分のことを助けてあげられないんだよ。有神論者ぶったり、無神論者ぶったりするのをやめたら?テロスのないのが辛いんでしょ。自分に目的がないのが辛いんでしょ。『生きるとはなんですか』に耐えられなくて、目的がもしかしたらないかも知れなくて。目的を喪ってから長いもんね。でも、どうするの?だからずっと、目的がないふりをするの?神がいないフリを?神って、あの一神教の神じゃなくていいんだよ、“目的“があれば、それを神と言っていいの。自分が神様になるんだよ。目的を自分で設定すれば、でも実行できないかもしれなくて怖いんでしょ、失敗が怖いんでしょ、裏切りが怖いんでしょ、理想が怖いんでしょ。わざわざ日記で、あえて自分をオタクの皮の下に入れてみて、何を実験してるの?

 コツキはメールを打つ手を止めた、ドクオもまた、追撃メールを打つタイピングをふと止めた。コツキとドクオが、もう一人の自分を認識したからだ。気がつかないうちに彼らは咬合し、どちらがどちらともないままに、たった一つの顎となった。

*1:ここでは、私の立場を示した。「疑いようのない前提」があると考える論者もいる。しかし、最も重要なのは「誰もどっちが正しいのかを知らない」ということだ。もし、「疑いようのない前提がない」とする私の立場が“正しい“ことが示されるのだとしたら、それが“正しい“ということが保証される疑いようのない前提が必要になってしまう、つまり、疑いようがある仕方で何かが“正しい“ことを示せないから、「疑いようのない前提がある」と考える立場の方が強いとされる。個人的には、疑いようのない前提がないと考える立場は、疑いようのない前提があればそれは“知っている“ことが“信じている“ことと変わらなくなってしまうと思う。なぜならば、疑いようのない前提があるとするならば、それはどのようにして疑いようがないのかを証明しなくてはならないが、その証明に必要な“何か“の要素があるのだとしたら、それは疑いようがある要素があるということだし、また、その要素自身もまた、いかに疑いようがないのかを証明する必要が生じるからだ。おテツガクの世界では、「疑いようのない前提がある」ということを基礎付け主義、そうでないものを非基礎づけ主義、と名前をつけて、これらの対立についての議論がなされている。