5月11日:つまり、No LifeだってNo Music

 日記は毎日書いたほうがいいけど、かかなくたっていい!命あっての物種、私の人生にはずっと音楽があって、いろいろな音楽が自分の人生に宿ってる。あ、今週末はメンクリ、診断書の様式を忘れるな!

 最近はいろいろなところで”死”と向き合う。図らずも、サンタ・ムエルテだけじゃない、この間、ネッ友におすすめされてサイコーだな、と思ったマイ・ケミカル・ロマンスの『The Black Parade』というアルバム、近親者の危篤、尊敬していた哲学者の死、昔よく見ていた配信者の死、そして刻々と自分に迫る死。

 初めて哲学にハマったのは中学生のころ。ショーペンハウアーニーチェといった、後世の人たちには”生の哲学”という領域に分類される哲学者たちと出会ったことが端緒だ。難しいことを抜きにして、常に危機的な状況にあり、身の回りのみんなが素朴に抱えている、完成された人生の”ルート”が自分とは関係ないかもしれない、という恐怖から、常に「生きるってなんだろう」「失敗して苦しむ未来しかなさそうなのだから、生きなくてもいいんじゃないか」という問いに直面していた。常に、「生きる」ということがボクにとって大問題だった。だからボクは、その頃から自殺という行為に親近感があった。だからこそ、人よりも倫理的でいるためにはどうしたらいいか、正しいこととはなにか、真理とは何か、も同時に問題になった。つまり、すべては「生きる」ためのことだった。でも、そんなものを考えることはそれ自体お金にならない。でもこれは、別に哲学者になるとならないとにかかわらず、多くの人が直面している問題だ。どういうことなんだろうか、人が「生きる」ことを問う作業に、どうして無益さが伴ってしまうんだろう。これが示唆することはたくさんあるけど、少なくとも、今の私はむやみに「各個人が自己実現のためだけに生きる社会を作るべきだ」とは言えない*1し...。ここで、もう何を書いたらいいのかわからなくなったので筆をおく。前のブログ(郁郁青青 (hatenablog.com))でも書いたけど、人生って短いなあ。がんばろ。

*1:そもそも、”自己実現”というのが、限られた人にしか認められていないことをよく反省するべきだろう。今日の配信では、「子を産み捨てることができる社会」のはなしをちょっとした。その時にもちらっと話したけど、今の社会に広がる”個人主義”との食い合わせがちとわるい。詳細は割愛するが、場合によっては、個人よりも社会を優先するという、これまでに多くの危険があることが分かっている立場に落ち着かざるを得なくなる。すなわち、安易に”みんなでやる”という言説を肯定することは、その根本でなにかしらの極端な思想につながってしまうのである。いま必要なのは、個人を優先するべきなのか、社会を優先するべきなのか、それらのバランスをどうとるべきなのか、あるいは、個人と社会が独立であってーもうすこし専門的に言えば、方法論的個人主義のアプローチの限界にあたるものが、まったく集団のふるまいをうまく予測しても完全には説明しないということがありえるのかー、もっとうまいやり方があるのか、という議論をすることである。そしてこれは、いわゆる現体制のもとで、そして現代の大学制度のもとで選ばれた”エリート”たちだけではなく、もっと当たり前のように人々が議論できるようにしなくてはならない。インターネットが普及した今、こうした根本的な議論を避けてしまうことは、偽情報を教義としたたくさんの”政治的新興宗教”が乱立し、民主主義が今よりも大きな混乱に陥る危険性がある。米国のトランプ氏や、諸所の政治混乱、あるいは日本における参〇党みたいな似非科学政党の興隆をみたとしても、先ほどの”政治的新興宗教”がいくらか現実に存在していることがわかるとおもう。厄介なのは、似非科学などはわかりやすいけれども、うまく答えの出せないような、それこそ、「大事にするべきは社会か、個人か」といった問いに、間違った前提や不正な調査結果を伴わせることで、それぞれの立場を”宗教化”することが起こると、なかなかそれに気づくことは難しい。まず一歩として大事なのは、「AかBか」論争があるときに、本当にAかBかしかないのか、ということを疑うことだ。