7月22日:中くらいの夢を見ていた。“悪人“のいない世界に善人はどのようにして存在しうるのだろうか。

 今年の5月ごろに読んだ漫画『女子攻兵』の終盤、「夢でも見てたのかな」というセリフが出てくる。これはどちらの“夢“なんだろう。起きてみる夢?寝てみる夢?...
 私の人生において、起きてみる夢、言い換えると、人生の目標というものは、長らく他人の意図によって奪われていた。そもそも、寝て見る夢は、途中で叩き起こされて中断されることはあれど、それ自体誰にも奪われようがないから、他人に奪われるものといえば、起きてみる夢くらいしかない。
 “夢“のもつ魅力は、文明爾来人類を惹きつけてきたようだ。人類のほとんどが夢を見るだろう。将来を期待するし、寝れば“何か“を見る。進化の過程で将来の予測能力が選択されてきた帰結としての夢(目標設定の能力)、あるいは、恐怖や課題の予行演習しての夢、記憶の整理としての夢。このように、夢は科学的探究の対象でもあったし、象徴としての夢、現実と空想の結節点、あるいは曖昧さの傍証としての夢など、文学的、芸術的関心探究の対象でもあった*1。あるいは、もう少し視点をずらして、夢にスピリチュアル的意味を見出す宗教的関心の対象でもある。宗教的関心としての夢の例としては、旧約聖書ではヨセフやソロモンが夢を通じて神と接触し、新約聖書ではマタイ福音書におけるイエス誕生の場面において夢が重要な要素として登場する。このように、“夢“は人類を強く惹きつけ、人類が持つあらゆる側面からのアプローチを受けるが、いまだにその全貌を示すに至らない*2

 夢、幼少期の頃の私にとってそれは、父に押し付けられた理想、あるいは、寝ている時に見る夢。後者のものとしては、現在も変わらない“夢“だ。以降、ポツン、ポツン、と“夢“を強く意識させる人生の構成要素は付け足されていく。まずはクトゥルフ神話。『クトゥルーの呼び声』では、ルルイエ城で目覚めるクトゥルフが、人間の夢に干渉をする。次に、シュルレアリスム。人間の夢、夢想、それは“超“現実。現実を超えてしまうという意味ではなく、現実を突き詰めるという意味での。それがシュルレアリスムである。その運動の流れ、いや、外にあるものかもしれないが、私が尊敬するレスリ、エリック・サティは夢を見る人であった。卵のように軽やかな彼に私が強く惹かれるのは、サティがダダイズムシュルレアリスム運動とは独立に、彼自身が超現実的な存在であって、彼の音楽が超現実的世界だったからである。こういう持って回った言い回しをする、評論家気取りな、難しいことを言って全てを煙に巻くような文章を書くインテリきどり、あるいはペダントだったのか、と思う人もいるかもしれない。それは許してほしい、それだけに、私にとってレスリは大事な人なんだ。ひたすらに、私は彼を尊敬している。さて、話を戻そう。この大きな“夢“、つまり、シュルレアリスムの影響を受けた後に、あらためて“夢“を考えさせる契機を与えてくれたのはマインクラフトのエンドポエムだった。ここに、ずいぶん筆が滑っているが、かつて書いたエンドポエムの解釈がある(https://kokeshicraft.hatenablog.jp/entry/2021/06/04/150047)。簡単にいえば、マインクラフトはそのエンドポエムにおいて、マインクラフトを“短い夢“、そして、それをプレイする人間の人生を“長い夢“と表現するメタフィクションを表現する*3シュルレアリスムの主張が随分私の中で静かになってしまった悔しさは、マインクラフトによってそれを全てのものがシュルレアリスム的であるという事実をつきつけられることで前向きに昇華された。夢と現実は、本当に明確に区別できるか。夢というのは今、生きている現実の中にある何かであって、別次元の何かであるという証拠はどこにあるだろうか。
 もうここから先は読む価値が全くない。今までに見たことがないような、朦朧としていて、論理的分析に耐えない飛躍を持ち、価値とか、読みやすさとか、そういうものを全く無視した、大変醜いものになる。夢と現実の境目は睡眠による、起きている間は(睡眠で見る)夢を見ない。それは人間においてはそうだ。イルカは夢を見るか?イルカは起きていながら、夢を見ているのだろうか。それは事実の羅列か、恐怖の予行練習か、あるいはそれ以外か。人間も起きながらにして夢をみる。強く空想の世界に浸ることと、寝て夢を見ることと、一体どれだけの違いがあるだろうか。全くの水平思考は、夢のようではないのか。生きているのと、死んでいいるのと、本当に違いがあるのだろうか。死がもし、その生の主体が認識する“外“にあるのだとしたら、死そのものはある主体の生の一部ではない。一方で、夢は、明らかにその主体の生の一部である。つまり、夢と死は異質である。しかし、エンダーマン達のいう通り、人間の生が長い夢であるとすれば、夢と生は同じものである。この仮定に従えば、確かに、夢と死は異質であり、生が死と異質であるという矛盾しない性質を持つことは納得いく結果である。さて、他人の視点からしたらどうだろう。他人からすれば、とある自己の生から死までを観測することができる。しかし、とある自己の見る夢は観測することができない。他人からしても、夢と死は異質なものである。よって、自己からしたら“死“が、他者からしたら“夢“が、異質なものである。さて、夢とは生でもあった。改めていい変えてみよう。自己からしたら“死“が、他者からしたら“ある自己にとっての生“が、異質なものである。これもまた納得がいく。他人の生死は異質である。他人の死は受信するしかできないが、他人の生には自己の送受信が可能である。生の特権が、コミュニケーションだ。今こそシュークリームが出来上がりそうなのだから、スプレーの先端から少しづつでてくるオイルのタバコが緑色からピンク色に変化するのだから、白いボンド、痛い踏み台の棘が逆立ちする本棚にあるような炎。こういうふうに、自動筆記のもたらすインパクトだって、生のもたらすものである。美しいなあ。自動筆記。かつてはノートにペンでやっていたが、キーボードでやるのはすごく捗る。かつて、まだ私が坊主頭だった頃に行ったシュルレアリスム展で、自動筆記の生原稿を見た。今でもあの茶ばんでいて、美しい紙の質感を思い出すことができる。そして、当時の私が抱えていた苦しみも。爽やかなオオムラサキの鱗粉が瓶ビールに入ると、大きな葉っぱに変わって湖を形成した。ストローから漏れ出るデスクマットを丸めると中からつばめの声が聞こえる。大きな河が流れる、水管橋が泣き喚く、雪が飛び散る、浅瀬に人がたつ。それは黒く、毒々しい液体と煙突。パラパラとめくるその指にまとわりつく糸が絡めば風が吹いてビルを撫でる。そこには光る石、ヒビが入る。みだりに見てはいけない。生きていることと死んでいることと、私にとっては曖昧なのだから、曖昧じゃない人にとっては、曖昧じゃないままでいてほしい。生きていることと死んでいることは、全く違うんだ。君にとっては全く違う。いいかい、死というのは異質なものだから、君の選択肢ではない。でも、私にとってはおんなじなんだから、止めないでほしい。私にとって、生の究極は死と等しい、夢と現実の合間が、まったく異質に思われる夢の世界と現実の世界の、虚構の世界と現実の世界との合間がないように、生は死であるし、夢は現実である。長い夢の究極が死であり、夢を見終わることはない、生が終わることはない、死は異質なんだから、私にとっては死が訪れようと、それは夢の継続であり、生の継続であり、これが誤謬推論であっても、茶色い優しさだけが私を癒してくれるし、冷たい眼差しだけが、泡の中から覗き込む喜びを。生に喜びを。
   “Ja, wer auch nur eine Seele
            Sein nennt auf dem Erdenrund!
    Und wer's nie gekonnt, der stehle
           Weinend sich aus diesem Bund! "
君にとって、自殺は、死は選択肢にならない、死は救いではない!なぜなら、死は生ではない。君にとって、死は生の延長ではない。もしそう思うなら、それは私の文章をここまで読んだからだ。あるいは、私の文章があなたの考え方を支持する補強材として機能しているのだ、と、そのように私の影響力を低く見積もって、心理リアクタンスを飼い慣らそうとするんだろう。それもまたよし、ただ、それを踏まえて、生の只中にいるあなたに、私の文章が届いたこと。この事実を持って、あなたは死を選ぶとき、本当に自分で死を選んでいないことになるだろう。死はあなたの問題ではない、社会の問題だ。君以外はみんな社会だ!君はそんなものに殺されるべきではない。君に呪いをかけた、言葉は呪いだ。君はもう自殺を、魂の解放のための選択肢から失った。何をくだらないことを言っているんだ、死をもってしか解放されない苦しみがあるのに、それを否定するつもりなのか。私は。あまりにも偏狭すぎやしないか。

*1:無論、両者は綺麗に分けられるようなものではない。

*2:そもそも、我々の探究対象が、何かしらのかたちで“全貌“を示してきたことなどあるのだろうか。

*3:察しのいい読者なら気づいているかもしれないが、私はメタフィクション作品が大好きである。特にお気に入りなのはホドロフスキーホーリーマウンテン』だ。最近のものだと、宮﨑駿『君たちはどう生きるか』。