3月3日:誰かが得をしているなら,僕は損をしていると思わないよ

 今日は何度寝したかも覚えてないけど,昼頃に起きれた...はず。どうだったっけ。遅々として進まぬ,というか,多忙でそもそも手をつけることも少なくなってしまっていて,本末転倒ダナア。と思いつつちゃんと今日は論文にかかわる作業ができた。ご飯も食べたし,ちょっと作業したくらいで,なんだか休みらしい休みをすごしたと思う。毎晩毎晩ミソサザイが近くに飛んできて会話をするんだけど,「論文やれ」をこまめにつぶやいてくれるようになった。襟が引き締まる。そうなんだよねえ。もう後は論文だけなんだよねえ。それさえ済んじゃえばもっといろいろ自由に組んでできる。制度的なところはさっさとクリアして,自分のペースをつかんで論文博士や資格の取得を頑張ればいいな,と思った。こないだの仕事の面接はマジ最悪だったけど,「ひとつづつやれよ」という指摘は本当にそのとーりかもー。ってなったので,考えを改めた。

 そういえば,前回翻訳した論文(書いてないのに翻訳は沢山してる)もまた,大きい特集の一番目になった!うれしい。

 とにかくパラレルキャリアだから,それを適度に維持しつつ,”いっこいっこやる”を目標に頑張る。複数やりたいならちゃんと時間割を作るべきだしね。

 ミソサザイのことを書きたいけど,何を書いたらいいかな。ミソサザイはいま変化の時にある。私もだけど,それを見守っている。チュンチュンと私の周りを飛び回って,好きに楽しんで,私のところに帰ってくる。なんだか,子どもが親を拠点にして遊びまわって安全基地として帰ってくる,というのの親役をやってる感じだけど,まあ親ではない。安心してくれているんだろうな,と思う。

 ああそうだ,今日は利他性について考えてたんだ。ヘイ・デイを始めたんだけど,今はいろいろと軌道に乗ったので,1コインで広告出して困っている人に定期的に各作物10個づつを配ってる。これってもしかして,私が自身に最近特に感じている利他性と”自分の所有しているもの”みたいな感覚のなさによるというか,それによって相互に利益が得られると思っている,みたいな,一般社会とのズレが顕著になっている気がする。誰かが「○○ほしい」と言っているとき,「買ってあげようか?」っていうと,「なんで!?」って言うときがある。あるいは,なにかしらのメモリアルな日に友人にプレゼントをするとお返しがきてしまう。私はただ,私が労働する場所で労働して,もともとは他人のお金だったものが私のところに来たので,私の身の回りの人に,あるいは困っている人のところに配っている感覚なんだけど,どうやら身の回りにいる世間の人からするとそれはなにか特殊なことらしい。
 私は,悲しいことや苦しいことがあるひとに手を差し伸べることや,自分の時間や身銭を切ること自体に何の抵抗もない。見返りも期待していない。誰かが私によって得をしているなら,私は損をしているとはおもわない。他の人と私が持っている価値観の違いのひとつに,これがあるなと思ったンだ。

 でも,「これは私のだ」と思うものがないわけでもない。例えば,ミソサザイ,自分自身,家族。ここに対しては,私が特に大事にしなくてはならないし,恋人には嫉妬することもあるし,自分自身というのは,自分が生きることの自由を最後まで保証してくれうものだし,どんな状況に置かれたとしても誰にも奪われないもの。例えば,私がもし,この世界において芽が大きくなりつつあって,そしてみんなも無自覚にそれに加担しているかもしれない”優性思想”の被害者になるかもしれない。あるいは,宇宙人にさらわれて拷問されたり,第三次世界大戦の渦中で何かしらのトラブルで拷問をうけて,ガス室に送られるような立場になるかもしれない。それでも,”私自身の精神”を他人は奪うことはできない。私の財産,家族,そして身体が奪われたとしても,私の精神は他人には奪えないよね。だから磨こうと思うし,たしょーの愛着があるんだろーな。

 科学が好きなのも利他性に基づいてるかもって思う。知識っていうのは共有財産だからね,知識とはなにか,を明確にしたいし,共有財産としての知識を増加させることは,世界全員のためになることだとおもってる。だから学術研究が好きなんだと思う。

 また,こうやって考え方を活字にして拡散してるのも,みんなが得るものがあったらいいなって思ってるからでもある。