3月6日:「看取られたい」

 出社した仕事終わりには雨が降ってた。ミソサザイのさえずりを聴きながら交差点を走りながら歩いていたら,スマホを交差点に落っことしてそのまま気づかずに橋の下。「あれ!?」となって交差点に戻ったら伏せて携帯がおちてた。スマホの裏にはヘヴンズドアでの思い出のチケットと,ミソサザイが激カワいい服を着てる隙に入ったフェンダーストアで買い物をしたときにもらった限定シールが入ってる。それが表面になって落ちてるもんだからみづらいのなんの ....。でも何とか見つけて,さえずりを聴けるようになった。

 ふと,おととし受けた講義で医療社会学の教授が実施していたアクティブラーニングで「看取られたい」と評価をもらったのを思い出す。私の死生観の話だ。死に直面した人に,なんと声をかけるか。私は唯物論者なので,ついつい「みんな死んだら大地に還る。燃えれば炭素というもっとも単純な物質に解体されて世界に広がっていき,世界のどこもかしこも亡くなった人であふれることになるし,土葬したとしても,それは大地の栄養となり,草木がはえ,それを虫がついばみ,あるいは分解して土壌となり,虫は鳥の栄養になり...。とにかく,亡くなった人は世界の一部になるのであって,けしていなくなったわけではない。」という,見る人が見れば無味乾燥ともいえるような話をしてしまった。でも,それに対する評価が「看取られたい」なのも,私にとっては不思議だった。もし,こうした考えが,私が素朴に持っている考えが,誰かの悲嘆を軽減したり,死の恐怖の直面している人の役に立つのならば,あくまでも意見の一つとはいえ,身の回りに伝えたいなと思う。

おっと,まじめな話をしちまった。うちの父親の話をしよう。私は子どものころからゲームが大好きで(本当に,ジャンル問わずありとあらゆるゲームをやった。),戦争ゲーム(FPS)とゾンビゲーム,そしてグラセフに夢中だった時期がそれぞれある。父は,父の部屋兼リビングのようなところになっている部屋にある,古い大きなブラウン管テレビで戦争ゲームをしていると「お前が撃ち殺している相手にも家族がいるんだぞ。」などとのたまう。グラセフをしていると「泥棒!犯罪だ!」と本気なのかチャチャなのかわからないコメントを横からいれてくる。でも,スッゲーおもしろいことがあった。
 『デッドライジング2』というゾンビゲームがある。主人公はゾンビを殺す”ショー”の名手で,バイクの両脇にチェーンソーを取り付けてゾンビを殺しまくる競技のプロ的な存在だったと思う。そんな主人公がショッピングモールに閉じ込められ,そこでいろんな道具を使ってゾンビと闘いながら人助けをしたりするというゲームなのだが,最初に件の”ショー”をするシーンがある。つまり,主人公の紹介をするシーンだ。私はバイク×チェーンソーのヤバ兵器を走らせてゾンビを殺しまくっていた。そしたら父は今までで2番目くらいに大きい声で「おい!なんだこれ!人殺しか!」と怒鳴った。うっとおしそうに私が「ゾンビだよ」と言ったら「なんだ,ゾンビか」と納得した。
 ....?ゾンビだったらいいのか?『デッドライジング』シリーズには,CUREという,ゾンビ化してしまった人間はかつて人間であり,人権があるとする立場を主張する組織が出てくる。戦争ゲームで「殺される側にも家族が」とか,グラセフで「犯罪だ」と思う人が「ゾンビか...」と,ゾンビなら殺してもいいと思う父親は,CUREの側に立ってもよい気がするが,そんな倫理的な一貫性の無さが面白くて今でも思い出したら笑けてくる。