5月20日: ぼくはもうだめだ2

 昨日は早めに解散したのに、深夜まで起きてしまった。朝にちょっと起きて二度寝して、また起きてからの私はダメダメだった。コーヒーを飲むとなぜかどっと疲れが出る。もしかして、いよいよ肝臓がしんどいなのかも。カフェインも肝代謝だし。はーあ。スッキリ寝たい。寝不足は全ての敵。心の調子も悪くなる。全部だめ。こんな時に日記をかく筆なんか取らない方がいい。

ーー以下はどうでもいいから読まなくていいーー

  そんな心がささくれだった状況で、哲学者の永井均が、性自認と性同一性についてめちゃめちゃなことを呟いていたことがストレスだった。

  永井均は次のようにいう

https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1656537351152369664?s=46&t=2sl89975E7k-ybpHiRjDtQ

  彼の主張は以下のように定式化できる

 1. 性自認は認識論的概念である(ものをこう見る、という、人間が認識することに属するものである)。

2. ところで同一性は認識論的ではなく、存在論的概念である(人間がこう見る、というのに関わらず、それが何かしらの形で存在する、ということとその在り方に属する概念である)。

3. 上にあげた1.と2.は、厳密に区別されるものである。

4. 性同一性は、同一性に属するものだから、性同一性と性自認もまた、3.に従って、厳密に区別されるものである。

 

  結論として、永井の論証は誤り。存在論的な意味での同一性ってのは、通時的同一性*1なわけであって、“自認したものと合一するかどうか”という意味の同一性とは関係ない。つまり、定式化の4.の部分に決定的な間違いがある。性同一性っていうのは自認と身体の同一性(哲学用語と区別して呼ぶとすれば、“合致性”)が問題になっているので、永井の言葉でいうところの“認識的概念”を前提としている。たしかに性同一性の話から、言葉上「同一性」だけ取り出せばそれは存在論的な問題としての“同一性”と同じ話だけど、ここでの議論は性同一性の話なのだから関係がない。

  これまでの議論を簡潔に言い直そう。純然たる存在論的概念としての同一性という一般的(General)な議論から、性同一性への例化(Instance)は出来ない。なぜなら、さっきも述べたように、性同一性の問題には、“自認”という認識論的概念が含まれているので、純然たる存在論的概念としての通時的同一性とは無関係になる。つまり、純然たる存在論的概念としての同一性は、性同一性の議論に与しない。結論として、永井均の論証は、前提と結論が妥当な支持関係にないから、成立していない。

*1:ある存在が同一かどうかを議論する時に、テセウスの船の例に顕著だけど、ある時点からある時点の2つが同じであるということが問題になるからだ。現代存在論における同一性の議論は、それが自己か人格かにかかわらず、この枠組みで行われている。たとえば、秋葉他『現代形而上学』(2014, 新曜社を参照されたし。