5月22日: 働けども働けど

 数日間持って回る予定だった仕事が一日で片付いた。胸が苦しい、口渇感がある、足に違和感がある、横になると苦しい。

 週末は指導教員に会う。卒論もどんどん詰めていかなきゃいけないけど、資格試験が8月にある。財務・会計、生産管理はすごく順調だけど、経営法務が凄く心配だ。理屈というよりも、ひたすら「○○は××という取り決めであるから、△△しなくてはならない」という類のことを沢山覚えなきゃいけない。記銘には時間がかかるから、理屈でゴリ押しできる(つまり、事象の理解と基本的な数学の能力があれば理論を素手から構築できなくもないような分野)と並行して、 こういう暗記物には早いうちから取り組まなきゃいけない。いやしかし、フルタイム労働をしていては、かなり時間が無い。本当は余裕があったら、当分野の勉強全体に与するのでシステム分析(因果ループ図)を復習しておきたいんだけど、はたしてそんな余裕あるかな。勉強に関係ない本を読む時間もそんなに取らない方が良さそうな段階になってきた。結構これはキツい。線形代数の勉強もいったんとじ。日記は良い。書いていると心が落ち着くから、時間を割くだけの価値がある。何はともあれ、8月に大きく人生を左右する試験があるから、今はそれに集中しなくてはいけない。結局、入学当初に抱いていた野望、すなわち、働きながらお金を貯めて大学院に行くという野望は頓挫した(させた)が、最終的には最も経済合理性の高い選択ができたと思う。

 でもこれは凄く皮肉な話だ。子どものころ、私の親はいつもお金のことで喧嘩していた。前も書いたかもしれないけど、私はお金という存在に早い段階から疑問を抱いていた。そして同時に諸々の理由から、まあ、端的に言えば家庭の理由から、私は強くお金を恨んでいた。お金は人間の人生を大きく規定する。特にお金が無い人間の人生を。私は恨んでいた。お金を恨んでいた。

 しかしそれは間違いだった。ある時に気づいた。お金は何も悪くない、お金を巡る人間の行動が悪いんだ。お金自体は価値中立だ、お金はわかりやすい。お金それ自体には、額面以上の価値はない。額面以上の価値は、人間と人間の関係の間に生じる。なら、とあるお金持ちと同じようにお金を持つのだったら、その人は悪人と善人どちらの方が望ましいか?明らかに後者だ*1。これは、親愛なるKISSのジーン・シモンズに教わったことだ。

 これに近い勘違いについてもう1つ。労働は悪では無い。労働自体もまた価値中立的である。問題は労働を巡る人間関係だ。自分の体験した職場がどれもダメだったからといって、労働自体が悪なのではない。つまり、労働をしなくてはならないという押し付けが悪なのであって、労働をしたくない人はしなくて良い。押し付ける人間関係をもたらす構造(労働中心主義が世を睥睨するように仕向ける力が働いていること)が悪なのであって、すなわち労働が悪だということにはならない。

  とにかく、生きる上で重要なことについて、何か不合理な理想に囚われるのをやめた。自分が「嫌いだ」と思ったものにも、逆に、「こうありたい」と思ったものにも*2囚われない。私は在るように在るのだ。在らぬようには在らない*3

 .....とか言いながら、どっかで何かに囚われ続けているんだろうな。それを探し続けなきゃ。見つけなきゃ、そして破壊しなきゃ。さいわいなことに、破壊は退屈を引き裂いてくれる*4

*1:ひとが「明らかに」と前置きする時は気をつけた方がいい。大体は「そういうことにしておきたい」と言う意味だ。じっさい多くの場合は、それはその人以外にとって本当の意味では“明らか”ではない。

*2:つまり、貧乏でも大学院に言って学生をやり続けるという、ある意味美談的だが、実際には惨めで、それに加担することによって自分以外の人間が惨めであることを社会がその理想形にしうる、という害すらもたらすようなもの。や、まあ、しうるというのがすなわち害なのではない。何かを害にするのは往々にして人間だ。

*3:数学の“濫用”であることを前置きしつつ、これが何を意味するのかを示そう。ここでは私という存在が世界の基礎であることを主張している。A→Aであって、すなわちA=Aであるという主張は、元はライプニッツが数学への懐疑論を回避するために設定した(e.g. 佐々木力『数学的真理の迷宮』)。これは同一律とよばれる。同一律は、「なにかが知識の基礎になっている、というとき、その基礎もまた、基礎であるという証明が必要である」という懐疑論の主張への、ライプニッツからのアンサーである。この是非は置いておくとして、数学的にいえば、これは“公理”にあたるものだ。対して、A→Bであったり、B→Cであったりするような、公理・定義から発展させて作っていく命題を“定理”という。つまり、公理というのは、定理よりも基礎的で、これが無ければ定理はないのである。これを人間にむりやり当てはめてみると、まさに公理というのは、ひとつは同一性を利用して「私は私である」とか「私は在るように在る」と主張することで打ち立てられるものだ。この、“私”があるからこそ、私から出発したものがどうあるか(つまり、どのような定理がつくれるか)ということを決定することができる。自分の人生を自分で規定するために、私がどうあろうとしているのかを、「いまここ」の段階でハッキリさせておこう。という心意気が、「私は在るように在るのだ。」という主張にある。

*4:ハチワレの「なんとかなれーっ!」への言及もある。→飯盛元章「よくわかるMOD入門─破壊の形而上学へ」https://bit.ly/20230416iimori