6月16日: ひらくということ

 今日は発見の多い日だった。1番の発見は、「やろうと思えば、たった数時間の間に、価値観、生い立ちといったような“存在の文脈”をお互いが極力言語化し明示した上で、お互いの文脈に寄り添いながら話し合う(雑談する)、という理想的な対話の準備ができてしまう。」ということだ。単に、文脈が大きく異なるもの同士が交わることはままある。しかし、文脈を説明した上で否定も肯定もせずに了解して対等に意見を交わすに至るまでにはなかなか至らないのが常であった。にも関わらず、今回ばかりは(多少は関係の蓄積期間があったのだが)急速に相互受容をし、互いに忖度のない(?)会話をすることができた。驚きだ。全く世界の認識の仕方が違うにもかかわらず、意見の一致もそれとなく多いのが不思議だった。自分を他者に”ひらく”という感覚があるとすれば、あれなのだろうなと思う。あらゆる面で、とてもフェアだった。

 普段、現実の人間関係は、他者と過ごしたあとに自己を吸い尽くされた感を覚え、ひたすら疲弊して次の人間関係が億劫になる。でも、今回は相互性があり、珍しく人と過ごして充実したなあ、と感じることができた。とても楽しかった。

 さて、“自分”(わたし)の話をしよう。会話をしているうちに、私は社会的評価を過剰なまでに低く見積っていることに気付かされた。いつだかの日記で書いたような自己肯定感の低さが関係しているのかもしれない。 ひとまず、当面の目標は「他者による私への評価を、歪ませず等身大に受け取ることが出来るようにする」だ!非常に難しそうではあるが、その意義は大きい。

 梟書茶房の内装は暗調の家具で統一され、落ち着きのある空間だった。食器だけではなくプラストローの色にまでこだわりを感じる。今度は芸術劇場に行く前にあそこでくつろいでみようと思う。