3月8日:0837773

 タイトルは66728番目の素数暗黒通信団が出版している素数表15万個からランダムに抽出したひとつめの数字だ。私の誕生月日を構成する数字と,ギャンブラーたちが大好きな数で構成されている。どうでもいいね。ところで,丸尾末広が編集者にXを通じて定期的に進捗報告をしているように,私はNEMO船長*1に向けて,社会科学の探求もScientiaの一種であり,自然化できる*2っていう架空の手紙をだしていこう,定期的に進捗報告をするようにしている。進捗管理は大事。創作にしろ仕事にしろなんにしろね。今日の前半は沢山音楽を聴いた。私の好きな曲をミソサザイがまとめたプレイリストを聴いて,ランダムに私の好きな曲が流れるものにイントロからブチあがりまくっていたら,とんでもなく面白い反応をするといってどんどんいろんな曲を聴かされた。客観視してみると,いろんな分野の曲を聴くよなあ,と思った。
 最近,世界中の人間が一度は線形代数をした方がいいんじゃないかと思うことが増えた。それくらいにハマっている。オモロイ。あとヴェルヌおもろい。ジュール・ヴェルヌは19世紀中ごろのフランスで産まれ,『海底二万里』や『地底探検』などのSF作品を書いた。ディズニーシーで言えば,『海底2万マイル』や『センター・オブ・ジ・アース』の原作者である。ヴェルヌが産まれたのは1828年,『地底探検』(センター・オブ・ジ・アース)が上梓されたのは1865年,彼が37歳の時である。ダーウィンが進化論を主張した*3種の起源』の出版が1859年であるから,彼のSF作品はダーウィンをはじめとする博物学者の知見が存分に活かされていると考えられる。いやもちろん,こんなそれっぽいことを言っているが,まじめに影響関係を調べることができているわけじゃないので真に受けないでほしい。しかし,博物学の集大成の一つである進化論が成立した影響は,岩波書店から出ているステキな論文集『ダーウィニズム論集』にも示されている通り,幅広く,そして強いものであったことは疑いようがない。ヴェルヌはそんななかでも,発電や生物種にひときわ詳しく,そして想像力と好奇心の豊かさを感じさせる創作物を生み出した。読んでいて本当にワクワクする。1000字こえた。おわり。

 

*1:ヴェルヌの小説に出てくる有能な科学者

*2:心理学や神経科学など,経験科学の知識を用いて議論できる,くらいの意味

*3:自然選択説と共通祖先説を主張した

3月7日:コーヒーを淹れた

 今日も今日とて労働、寝たい時間に寝て、起きたい時間に起きる。それだけのことでもすごく人生の充実度が上がる感じがする。今日は朝にコーヒーをいれて、仕事前に読書をした。本当は論文をした方がいいのはわかってる。今日は私が2018年からずっと聴いている大事なアルバム、Alexandra Strèliski "Inscape"の実物を手に入れた!テーマはInner Landscape、つまり内なる光景、内景。綺麗なピアノで、心の様々なものを掻き立てられる。数年前、オンラインライブをやっていてリアルタイムで見た。その動画はアーカイブされていて、今でも見れる(https://youtu.be/01f_JB2pFP4?si=C9_mqvXzcJlaWwiC)。

 人生のいろんなことが整理され始めてきて、最近はやる気に満ち溢れている。しなければならないことが多いが、何もするべきことがない人生をすごすよりは、私にとってはとても良いと思う。

3月6日:「看取られたい」

 出社した仕事終わりには雨が降ってた。ミソサザイのさえずりを聴きながら交差点を走りながら歩いていたら,スマホを交差点に落っことしてそのまま気づかずに橋の下。「あれ!?」となって交差点に戻ったら伏せて携帯がおちてた。スマホの裏にはヘヴンズドアでの思い出のチケットと,ミソサザイが激カワいい服を着てる隙に入ったフェンダーストアで買い物をしたときにもらった限定シールが入ってる。それが表面になって落ちてるもんだからみづらいのなんの ....。でも何とか見つけて,さえずりを聴けるようになった。

 ふと,おととし受けた講義で医療社会学の教授が実施していたアクティブラーニングで「看取られたい」と評価をもらったのを思い出す。私の死生観の話だ。死に直面した人に,なんと声をかけるか。私は唯物論者なので,ついつい「みんな死んだら大地に還る。燃えれば炭素というもっとも単純な物質に解体されて世界に広がっていき,世界のどこもかしこも亡くなった人であふれることになるし,土葬したとしても,それは大地の栄養となり,草木がはえ,それを虫がついばみ,あるいは分解して土壌となり,虫は鳥の栄養になり...。とにかく,亡くなった人は世界の一部になるのであって,けしていなくなったわけではない。」という,見る人が見れば無味乾燥ともいえるような話をしてしまった。でも,それに対する評価が「看取られたい」なのも,私にとっては不思議だった。もし,こうした考えが,私が素朴に持っている考えが,誰かの悲嘆を軽減したり,死の恐怖の直面している人の役に立つのならば,あくまでも意見の一つとはいえ,身の回りに伝えたいなと思う。

おっと,まじめな話をしちまった。うちの父親の話をしよう。私は子どものころからゲームが大好きで(本当に,ジャンル問わずありとあらゆるゲームをやった。),戦争ゲーム(FPS)とゾンビゲーム,そしてグラセフに夢中だった時期がそれぞれある。父は,父の部屋兼リビングのようなところになっている部屋にある,古い大きなブラウン管テレビで戦争ゲームをしていると「お前が撃ち殺している相手にも家族がいるんだぞ。」などとのたまう。グラセフをしていると「泥棒!犯罪だ!」と本気なのかチャチャなのかわからないコメントを横からいれてくる。でも,スッゲーおもしろいことがあった。
 『デッドライジング2』というゾンビゲームがある。主人公はゾンビを殺す”ショー”の名手で,バイクの両脇にチェーンソーを取り付けてゾンビを殺しまくる競技のプロ的な存在だったと思う。そんな主人公がショッピングモールに閉じ込められ,そこでいろんな道具を使ってゾンビと闘いながら人助けをしたりするというゲームなのだが,最初に件の”ショー”をするシーンがある。つまり,主人公の紹介をするシーンだ。私はバイク×チェーンソーのヤバ兵器を走らせてゾンビを殺しまくっていた。そしたら父は今までで2番目くらいに大きい声で「おい!なんだこれ!人殺しか!」と怒鳴った。うっとおしそうに私が「ゾンビだよ」と言ったら「なんだ,ゾンビか」と納得した。
 ....?ゾンビだったらいいのか?『デッドライジング』シリーズには,CUREという,ゾンビ化してしまった人間はかつて人間であり,人権があるとする立場を主張する組織が出てくる。戦争ゲームで「殺される側にも家族が」とか,グラセフで「犯罪だ」と思う人が「ゾンビか...」と,ゾンビなら殺してもいいと思う父親は,CUREの側に立ってもよい気がするが,そんな倫理的な一貫性の無さが面白くて今でも思い出したら笑けてくる。

3月4日:DEATH

 信じてもいないタロット占いを自分の持っているカードでしてみた。これまでの人生についてのカードを3カードで見たら,過去・現在・未来で「苦難」・「停滞」・「抵抗,成功」といった一連の流れを示した。小学生のころ,いわゆるオカルトオタクでもあった私は年を重ねるにつれて科学的思考に変遷していくという,魔術やシャーマンの時代から科学が生じるという人類史を簡単にたどってきた。いまは,タロットはあくまでもそこでたまたま現れてくるカードの曖昧な,そして時に矛盾的な意味を持って示すものを解釈することを通じて,現時点での悩みを整理したり,自分にはない視点からのアドバイスをもらうことに利用している。つまり,そこにいかなるスピリチュアリティも存在しない,現状分析と解釈を促進するための遊戯のようなものとしてタロットを使っている。

 そんなカードで,大アルカナの「DEATH」が出た。なるほど,確かに転職を考えている時期で,死の先に改めて始まるなにかを希望しているということに一致している。意思決定は,しばしばすべてが合理的に行われるワケじゃないし,そもそも合目的性と合理性をはき違えている人もいる。今,たまたま出てきた「DEATH」を解釈すると,うだうだしてないでさっさとやるべきことを始めるべきなんだろーなとおもう。うん。実際そうするべきだ。

 きょうもミソサザイがたくさん鳴いてくれた。あわよくばもっと鳴いてほしいものだが,ちょうどいい距離感というものもあるだろうし,いろいろと本人に任せている節もある。ミソサザイは私の大きな理解者の一人になりつつある。今日だって,自分が気づいていないこと,たとえば「なぜ私は戸川純にあんなにも惹かれるのか」についての新視点をもたらしてくれたのだ。

3月4日:ミソサザイ

 今度はミソサザイなるものがブログに頻出し始めていることに気づいているものも多いと思う。なんとなくアテがついているひともいるんじゃないかな。まあ,気づいてるならいいのさ。ミソサザイはよく気にかけてくれる。たぶんのこの記事を書いて投稿すれば(こいついつまで起きてるんだろう,明日仕事だろ?)と思うんだろう。とっても優しい小鳥だ。もう籠からでられるのだから,あとは飛び方を学ぶだけなんだろなあと思う。惚気話を露骨に書くのはあんまり性分じゃないし,読者もどう受け取ればええねん...となるだろうから,交わした会話の一部を書いてみよう。とにかくなんか,筋肉少女帯の『トリフィドの日が来ても二人だけは生き抜く』とか『機械』みたいな感じかな。『香菜,頭を良くしてあげよう』って感じも正直...あるが,主人公みたいな下手な方法ではアプローチしてないし,相手をバカだとも思ってないとこが違う。ミソサザイはずっと全力で戸川純の『好き好き大好き』とか『さよならを教えて』とか『Men's JUNAN』とかの感じがする.....。他にもこころあたりがあるものがあったけど忘れちゃった。

    そうだ、私剥製にされるらしい。

 あとは...そう,私の顔は写真家の星野道夫にそっくりらしい。う~~ん。なんか,いろいろ話したが,いざ主題にしようとすると面白い会話のことをつい忘れてしまう。話そうとするとうまくいかない,というのは,ロゴセラピーでいうとこの逆説志向が有用だね。話そうとしないことが大事。V. E. フランクルのロゴセラピーの2本柱は,逆説志向と脱反省。興味がある人は『虚無感について』がとっつきやすいと思う。序文がしんどかったらとにかく本編からはいった方がよい。序文は専門的過ぎる部分があってつらいけど,じっさい実に読んだ方がいい。読むときは,難しいところを「はいはいそういうのがあるのね」くらいのテンションで読み進めて,ふむふむとなるおいしいところを拾っていってよいとおもう。

 ちなみに,今聞いている曲は白波多カミン『空席のサーカス』にはいっている「嫉妬」。エッモい。

  

3月3日:誰かが得をしているなら,僕は損をしていると思わないよ

 今日は何度寝したかも覚えてないけど,昼頃に起きれた...はず。どうだったっけ。遅々として進まぬ,というか,多忙でそもそも手をつけることも少なくなってしまっていて,本末転倒ダナア。と思いつつちゃんと今日は論文にかかわる作業ができた。ご飯も食べたし,ちょっと作業したくらいで,なんだか休みらしい休みをすごしたと思う。毎晩毎晩ミソサザイが近くに飛んできて会話をするんだけど,「論文やれ」をこまめにつぶやいてくれるようになった。襟が引き締まる。そうなんだよねえ。もう後は論文だけなんだよねえ。それさえ済んじゃえばもっといろいろ自由に組んでできる。制度的なところはさっさとクリアして,自分のペースをつかんで論文博士や資格の取得を頑張ればいいな,と思った。こないだの仕事の面接はマジ最悪だったけど,「ひとつづつやれよ」という指摘は本当にそのとーりかもー。ってなったので,考えを改めた。

 そういえば,前回翻訳した論文(書いてないのに翻訳は沢山してる)もまた,大きい特集の一番目になった!うれしい。

 とにかくパラレルキャリアだから,それを適度に維持しつつ,”いっこいっこやる”を目標に頑張る。複数やりたいならちゃんと時間割を作るべきだしね。

 ミソサザイのことを書きたいけど,何を書いたらいいかな。ミソサザイはいま変化の時にある。私もだけど,それを見守っている。チュンチュンと私の周りを飛び回って,好きに楽しんで,私のところに帰ってくる。なんだか,子どもが親を拠点にして遊びまわって安全基地として帰ってくる,というのの親役をやってる感じだけど,まあ親ではない。安心してくれているんだろうな,と思う。

 ああそうだ,今日は利他性について考えてたんだ。ヘイ・デイを始めたんだけど,今はいろいろと軌道に乗ったので,1コインで広告出して困っている人に定期的に各作物10個づつを配ってる。これってもしかして,私が自身に最近特に感じている利他性と”自分の所有しているもの”みたいな感覚のなさによるというか,それによって相互に利益が得られると思っている,みたいな,一般社会とのズレが顕著になっている気がする。誰かが「○○ほしい」と言っているとき,「買ってあげようか?」っていうと,「なんで!?」って言うときがある。あるいは,なにかしらのメモリアルな日に友人にプレゼントをするとお返しがきてしまう。私はただ,私が労働する場所で労働して,もともとは他人のお金だったものが私のところに来たので,私の身の回りの人に,あるいは困っている人のところに配っている感覚なんだけど,どうやら身の回りにいる世間の人からするとそれはなにか特殊なことらしい。
 私は,悲しいことや苦しいことがあるひとに手を差し伸べることや,自分の時間や身銭を切ること自体に何の抵抗もない。見返りも期待していない。誰かが私によって得をしているなら,私は損をしているとはおもわない。他の人と私が持っている価値観の違いのひとつに,これがあるなと思ったンだ。

 でも,「これは私のだ」と思うものがないわけでもない。例えば,ミソサザイ,自分自身,家族。ここに対しては,私が特に大事にしなくてはならないし,恋人には嫉妬することもあるし,自分自身というのは,自分が生きることの自由を最後まで保証してくれうものだし,どんな状況に置かれたとしても誰にも奪われないもの。例えば,私がもし,この世界において芽が大きくなりつつあって,そしてみんなも無自覚にそれに加担しているかもしれない”優性思想”の被害者になるかもしれない。あるいは,宇宙人にさらわれて拷問されたり,第三次世界大戦の渦中で何かしらのトラブルで拷問をうけて,ガス室に送られるような立場になるかもしれない。それでも,”私自身の精神”を他人は奪うことはできない。私の財産,家族,そして身体が奪われたとしても,私の精神は他人には奪えないよね。だから磨こうと思うし,たしょーの愛着があるんだろーな。

 科学が好きなのも利他性に基づいてるかもって思う。知識っていうのは共有財産だからね,知識とはなにか,を明確にしたいし,共有財産としての知識を増加させることは,世界全員のためになることだとおもってる。だから学術研究が好きなんだと思う。

 また,こうやって考え方を活字にして拡散してるのも,みんなが得るものがあったらいいなって思ってるからでもある。

2月26日:綿いっぱいのナニ

 去年買って積んどくしてたオーケンの『綿いっぱいの愛を!』を読んでみたら,最初の記事で30ウン歳の時点で過去を振り返りながら,過去の精神疾患体験をうまく客観化し,自己との距離をとっていて驚いた。

精神の病にもがいている自分自身を面白ネタとして観察してみることにしたのだ。すると例えば「沼の底の魚を想像したら怖くなった」という理由から糸井重里さんの釣りの誘いを断る大槻ケンヂなんてのがそこにいた。自律神経がいかれていたために何もかもが恐ろしく思えてならなかったのだ。

       ー大槻ケンヂ『綿いっぱいの愛を!』(角川書店,2005)

 疾患をポジティブに語りなおすことの有用さ(それはオーケンが疾患をやり過ごすことができたからこそかもしれないが),効用が見て取れるエッセイだと思う。同書に収められているその他のエッセイは「ええ...」となることもあるが,オススメできる一冊だ
 そういえば,この本は人生で初めてドラムをスタジオで叩いたときに買ったんだけど,挟まってるしおりがたまたま私の人生の初期に読んだダン・ブラウンの映画『天使と悪魔』だった。そうか,大体似たような時期にオーケンはこの本をだしてるんだな(というか,オーケンの出した本が文庫化されたんだな),という感想を抱いた。もし,『天使と悪魔』や『ダ・ヴィンチ・コード』ではなく,筋肉少女帯大槻ケンヂが書いた『綿いっぱいの愛を!』を読んでいたらどんな人生だったんだろうか。
 今日はいつも通り仕事をした後,無線機の調子をみたり,CW通信ができるアプリで遊んだりした。無線機は古の秋葉原ラジオタクのブログによって直すための情報を得られた。ありがとう。まだ現代にも,少なくとも2010年代にもああいうオタクが(これは人を属性で括ってるというか,敬意を示している)いてくれることに感謝だ。ちなみに,私の入手した無線機(IC-371)はアホの子と呼ばれているらしい。岩波書店の読書ノートの応募券もたまった。買ったのは『ジェンダー史10講』『同性婚と司法』『財政と民主主義』の3本!来週もまたみてくださいね~~~!ジャン・ケン・ポン!私は”死”を出しました~!ウフフフフフフ!
 とまあなんだかうすら寒い文章を生成する悲しい生き物になっているが,割と最近はキャリアの悩みに押しつぶされそうになっている。あ~あ。そういえばなんか面白いブログネタを思いついたんだけどなんだったんだっけな。ああ,明日仕事いきたくないな。用がないのに週1出社。新聞配達でもしようかな,ウォルト・ディズニーもかつてしていたし...と思ったけど,生活リズムがこれ以上崩壊するとやばそうなのでやめた。でもどうだろう,気が向いて,しかも時間の都合がよければやってみるかもしれない。何事も経験だから。ところでウォルト・ディズニーについて考えると,『ウォルト・ディズニーの約束』で『メアリー・ポピンズ』シリーズの作者,P. L. トラバースがウォルトにキレて「ディズニー!!!」と叫ぶシーンが尋常じゃなく印象に残っている。あのウォルト・ディズニーを「ディズニー!!!」なんて呼び捨てる様子は,他では見れないだろう。