6月28日:悶々としている、偏見ということ

 これまでに繰り返し、私だけが悶々として、世間ずれしているような気さえしているということを手を変え品を変え書いてきたけど、やっぱり昨日も今日も、そう思うことがあった。人間の何かしらの属性を主語にして総称文(いわゆる、“クソデカ主語“)となるような主張をすることと、それに同調することは、やはり日常的に起きていることらしい。それこそ、人間が天敵に襲われたとき、悩み続けて判断を遅らせて死なないようにと、脳が作り上げてきたシステム*1のなすことである*2し、同調もコミュニケーションのために有益である。私は、一旦はその場では何も言わない、という選択肢を取るものの*3、後々何かしんどい思いがしている。クソデカ主語による主張が、「私が何もわかっていないだけかもしれないけど」という枕を伴っているならまだ意見を言いやすいが、正面衝突してしまいうる独断的な主張は、その見かけ上の“かっこよさ“をはじめとする要因から同調されやすい*4ために、何も言えなくなる。それに、最近は「偏見だけど」と言えば偏見を表明してもいいような風潮がある*5。そうなると、ついつい考えがちな人間の立つ瀬はない。状況がきちんと腑分けされされていないことを指摘することはそれ自体で水を差す行為になるし、喋れば“先生“扱い。最適な戦略は、そこを立ち去ること以外になくなってしまう。

 しっかりと勉強している人間は、とかく世間の嫌われ者になりがちな体感がある。なぜか知らないが、メガネをかけ、難しいことを言い、悦に浸っているような“賢い人“像が一人歩きし、実際に身の周りにいるかいないかにかかわらず、そうした少ない例から“賢い人“を非難しようとするような傾向が経験上多くの場所で見られる*6。しかし、そういう人*7は、単にその人が悪いのであって、小難しいことを喋る(特に私は“喋ってしまう“と自認する時があって、それが非常に苦しい。)人が悪いのではないということをわかって欲しい。全員が全員、賢くない人を見下しているわけでは当然ないのだから。大学に行ったことがないのに、大学なんか行く価値がないとか、大卒は使えないとか、どうしてわかるのだろうか?賢いひとを全員知っているわけではないのに、どうしてインテリが全員敵に見えるのだろうか*8

 便宜上、今賢い人とか賢くない人とかっていう、私らしくない言葉遣いをしていることに気づいた人がいるかもしれない。その違和感は当たっていて、そもそも私自身は人が賢いとか賢くないとか言うことにそもそも納得がいっていないし、世間が言うような賢い人とそうでない人の間に上下関係があるとも全く思っていない。ただ、世間が、“賢い人“と“賢くない人“の物差しを持って測れば、私は勝手に“賢い人“にされてしまうから、それに則ったに過ぎない。正直言って、私は一切、自分のことを賢いとも、他人よりも有能で価値があるとも思っていない。理由は単純で、そう思うことこそ、他人を類型で軽視し、“賢い人“と“賢くない人“の区別を受け入れることになるからだ。正常と異常は同じ一直線上のものであると考えれば、世間で言われるような“賢い人“と“賢くない人“を、質的に全く違うものとして扱う根拠は存在しない。あくまでも、この仮定が支持されると考える理由は、私がいわゆる賢さが環境的にブーストされないような貧乏である家庭から、世間で言われる肉体労働から知能労働*9までして、大学に入って今に至るという経験による。人間は対等である。そこにある差異は、本人が望んで手に入れたわけではない“生まれ“とか、“身体的特徴(性別の他、身体・知的障害などを含む)"が、公正ではない社会に置かれることで生じている“見かけ上の差異“であって、“本質的な差異“ではない。私たちは同じ人間というカテゴリに属する、一つの大きな何かなんだ。

 いわゆる賢い人と、そうでない人の間に違いなんてない。誰もが、最初から何もかもできるわけではない、ただやるかやらないか、やりたいかやりたくないかで違いが出るだけだ。私だって、文章を書くのがすごく苦手で、最初読むに耐えるような長文は書けなかったが、「やりたい」と思って続けていくうちにできるようにしていった。いまだに下手だけど。できる人を貶すのも、できない人を貶すのも、その人の「やりたい」とか「やりたくない」を貶すのとおんなじ、人格否定なんだ。それこそ、個人の「できる」「できない」「やりたい」「やりたくない」が、色々な対象に向かっているわけだし、そう言う人たちがたくさん集まってできるのがこの身の回りであり、社会であり、国であり、世界なのだから、自分以外の誰も否定しないでみんな生きていけたらいいね、と、きっと実現しない望みを持って悶々と生きている。家族、組織、社会、国家は、同じ価値観を持った人だけでできてるわけじゃない、そして歴史は、同じ価値観だけで人間が集まろうとすると失敗することを何度も示してくれている。“多様性“と言う言葉が、「ほらインテリがまた“多様性“とか言っているよ」というふうに茶化されるようになってもう久しい。確かに、視野の狭い、倫理観の押し付けのために使われる“多様性“が存在してしまっている。それは、世間で言われる“賢い人“がやっていることの一部では確かにある。でも、全員がそういう、価値観の押し付けをしたいからそうするのではない。「多様性を守る」と言う言葉は、より多くの人の価値観を、他人を傷つけない限りでの価値観*10を尊重するという願いの言葉なんだ。ここまで読んで、私の書くことに興味を持ってくれたのなら、どうか、“多様性“という言葉のもつイメージに惑わされず、自分が世界にどうなって欲しいのか、あるいは世界なんかどうでもいいのか、自分の身の回り、例えば大切な人ががどうなって欲しいのか、あるいは身の回りなんかどうでもいいのか、判断を他人任せにせず、そしてここまで書いてきたような文章に説得されないように中立な立場を持って、ゆっくり考えてくれたら嬉しいなと思う。これが、“賢い人“と世間から言われてしまう人ができる、クソながい文章を書くという、しゃらくさい行為がなすことのできるささやかなこと。傷つくんだよ。私だって。

*1:誤解が生じるためきちんと説明すると、“勝手にそういうふうにできてしまった“のである。これまでは「そういうふうに悩まなかった個体が生き残ったから悩まないようにできてきた」のであって、決して脳あるいは人間が「そういうふうになろう!」と思ってなったのではない。前者の発想が進化論的に正しく、後者の発想は正しくない。なぜ、人間の脳がこういう仕組みを持っているのかは、“二重プロセス理論“(あるいは二重過程理論)という理論がうまく説明する。人間には、認知バイアスの影響を受けやすいシステム1と、熟慮するために用いられるシステム2の2種類の思考回路(これもまた比喩なんだけど)があって、システム1の方が判断が早い。そして、システム1を駆動させる部位は、進化的に古いものとされている。

*2:認知バイアス

*3:なぜなら、私が何をどう考えているのかを説明しようとすると長大になるし、多くの場合は「この人は深く考えていて賢い」、あるいは「こいつは賢さで示威行為をしている」とか、そういう価値判断に巻き込まれてしまうからだ。

*4:科学コミュニケーションの文脈でよく取り上げられる。例えば、死ぬ確率が3%あるような状況で出をする際、医師が「死なない確率は0ではありません」というよりも「死なない確率はほとんどありません」という方が安心はするだろう。しかし、実際3%の確率で死ぬという数字は無視できるものではない。科学的な妥当性よりも、耳障りのいい言葉の方が人々に受け入れられやすい。だからこそ、これまでに多くの人がステレオタイプに苦しむのだろう。

*5:これは、前のブログで書いた“会話価値“が関係してる気がする。どういうことかというと、偏見が会話の上で、コミュニケーションの上で価値を持ち、その場が同調して楽しい気分になるという価値があるから、偏見(いきすぎると差別につながるのだけど)が認められてしまう。人が傷つかないものならいいが、自分が選択できないこと、例えば、人種、国籍、性別などにともなった偏見は、人をすごく傷つける。

*6:しかし、経験上どうだ、ということなど正直言って大した客観性を持たない。なぜなら、人間が一生に属する集団なんて数えるほどしかないからだ。しっかりその傾向が存在するかどうかは、きちんと大規模に数字を取らないといけない。つまり、“日本人“と、それに伴う性質を語りたいなら、本当にその性質があるかどうかを疑問に付さなければならない。ところで、これは日本人に限らない。一時期、そして今でも日本内で見られる在日韓国人に対する差別も、同様に“韓国人“が主語になって、本当にあるんだかないんだかわからない、単なるイメージに基づいた主張がなされる。そう、そしてこれは、はじめに書いたような、“総称文“、つまり“クソデカ主語“を用いた主張だ。そして、観測した限りでは、こういう批判から自分を守るために、「悪いことを言うために使ってなければ良い」とか、「そういう細いことを言うやつはうざい」という方略で、自身の自由に発言して気持ちよくなる状況を防衛しようとする。

*7:哲学界隈では非常に心当たりがある、自分が学んだことを自分の言葉で噛み砕くことができず、かつ説明もしないで振り回すと言うもの。ポストモダンに関わり、その思想をファッション化してしまった人間が、自分の“正しさ“を人に押し付け、悦に浸るためにそう言うことをするのかもしれない。

*8:実際、これは“ルサンチマン“として説明することもできるが、そう言うことをすること自体が、そもそもコンプレックスを抱える人たちのむかつきを余計に刺激する。

*9:言い換えれば、ブルーカラーとホワイトカラー

*10:いわゆる、危害原理 、これについては流石に長くなるので自分で調べてみてほしい、を犯さない範囲での価値観を