8月1日:哺乳類の日記

 アブサント、アブサント用の角砂糖スプーン、ゴブレットを買った。月が変わって、クレカを使えるようになったからね。今月は予算を組んだから、予算以上は使わないつもりだ。仕事の方は、長らく図面を引いていたが、これからは久しぶりにちょっとしたコーディングをする業務をやる。最近は絵を描いたり、ギターを弾いたり、勉強をしたり。配信頻度はだいぶ下がってしまった。もしかしたら今は、自分に閉じこもる時期なんだ。でも、これは文字通り、自分のなかに閉じこもって、自分だけの世界を生きるとか、そういうのとはまた違う。不思議な感覚。自分に閉じこもる、って、他人との関わりを断つ以外にあるんだっけ。そんなことない気がする。とにかく、こういうときに、戸川純と、エリック・サティの書いた文章(特に、私はサティ『卵のように軽やかに』が大好きだ。)を読むとすごく落ち着く。人との関わりを絶っていなくても、「ああ、自分の言うことって他人にとって理解が困難なんだな」というのを感じることができるだけで、十分に私は自分に閉じこもっている。いや、これは、自分が“閉じ込められている“ことを実感する作業なのかもしれない。
 芸術的活動こそ、まさに自分の中を点検する行為になっている。もちろん、新しい技法を使ったりするテクネーの向上ということも伴うが、それは紛れもなく、自分の中から湧き出る何かの放出だ。何かを表現することは、それがどんな形式であれ、私が形になる。ってことだ。これはとてもよろこばしい。どういう気持ちなんだろう。私の未発表の小説(そしてこれはおそらく世間に公表することはないだろう)の中から、これに近い感情の発露がある場面を引用する。

 “佐伯はたんぽぽの綿毛をそっと手で包み、すっかり掌に閉じ込めた。私は天端から、彼女がぎしっ、ぎしっ、と土手を河の方に向かって登りながら涙を流しているのをはっきり見てとった。登り切ると、彼女は誰もいない風下の方に向かって掌を解放した。
 「何でもいいんだ。私の手になるもの、私の手が触れて、私のおかげで、何かが産まれてほしいの。子どもじゃなくてもよかったの、自分が関わったものが芽吹いてほしくて、ただこうするの。」“ ー『鬱金人』

 私以外の誰かはいつか、どのような形であれ、いなくなってしまうけど。自分は生きている限りそうじゃないんだよね。誰かと共有する望みに、それを潰されてしまったら...いや、そんなことは、どうしたら起こり得ようか。
 誰かにとって、私なんかは代替可能な存在であり得る。というか、私なんかと関わることに何の意義もないだろうと思うが。とにかく、私はグランドピアノを2台重ねて蝙蝠傘をたくさん置くような生活を考えていなくはないし、とにかく、完全な孤立をしようと思えばできるし、私はどこにもいなくていいということに安心しているのかもしれない。でも、何もわからない。