2月25日:ヘリクツBOY(連載第2回),日記

 さあ今回は戸川純『好き好き大好き』の「ヘリクツBOY」の話をしよう。「ヘリクツBOY」は純ちゃんの妹である戸川京子との共作だ。当初は「ヘタクソBOY」というタイトルで,だいぶ下ネタちっくなものだったのだけど,いろいろあってああなったらしい。こういう偶然性が,歌詞の読み手に豊かさの種を投じるきっかけになるセレンディピティをもたらしたんだろうなあと。
 筆者はだいぶ,子どものころはヘリクツ気味で,よく学校でも家でもヘリクツばっかりこねては周りを困らせていた。大人になってからもこんなことしてたら周りの人間のおおくは直ちに地平性の彼方まで走って逃げるだろうが,一部の”優しさをはきちがえた人間”は周りに居続けてくれるから,ヤツの精神的自慰行為をエスカレートさせることになる。あーぶっちゃけ,そんなやつのことどうでもいいので書きたくない。
 前回の記事で書いたが,これは女性が男性に手玉に取られ,あるいは下に見られてムッとしてもう帰る!とか言っているような感じになっているが,筆者からすると,完全にこの女の子は男の子を手玉に取っていて,彼のいう言葉も愛おしく感じているのにかれはずっとその小難しい概念的・抽象的世界から降りてこず,実践性のないくだらない男になっているのに苦情を呈している。すごく面白い。ニーチェ思想における基本的な構成要素の一つに「大きな理性」「小さな理性」という発想がある。ニーチェは身体こそがだいじで,あくまでも理性というのは”からだ”の一部でしかない(”からだ”という大きな理性に対して,”こころ”という小さな理性でしかない)ということを論じた。つまり,"ヘリクツBOY"は小さな理性に比重を置きすぎていていて,大きな理性を理解している女のコがその男のコの狭量さを嘆く。という構図になってる。これは,いわゆる”女のコ”とか”乙女心”とかの文脈から外しても,この女性が,人間というのは大きな理性と小さな理性の両方をもっていて,尊重すべきは大きな理性なのだということをわきまえているのだということを示している。取って思面白い。

 

 さて日記だ,今日は原稿を終わらせた。次は卒論をガリガリ進めなくてはならない。行くぞやるぞ頑張るぞ。まずは生活習慣を取り戻す!