12月6日:吾輩は犬である、のか?自己肯定感が高い人間は怖い(devoided ver.)

  働きながら、自分自身のことを“犬”と称するようになったきっかけを思い出していた。それはキュニコス派、現代で言うところの皮肉な; 犬のような(cynic)の語源となった、古代ギリシャの一派に触れたことが始まりである。この一派が形成されていく始まりに、ディオゲネス・ラエルティオスがいる。彼は自他ともに認める“犬”であった。彼は自足を重んじ、アテナイで自慰行為をしながら「食欲もこのように満たせればいいのに!」と言った*1。まさに、自分自身によって、因習に囚われず自然の与えるままに生きるというのが、“犬”を初めとする彼らキュニコス派の潮流である。ディオゲネスについての伝説は数多く残っているが、私が気に入っている話がいくつかある*2。まず、それはかつてディオゲネスが奴隷として売られていた時のことであった。彼は奴隷たちが整然と並んでいるところに並び、だらしない格好で座っていたのである。それを咎められたディオゲネスは、「魚はどう並べてあろうと買われていく」と返した。この話は、まさにディオゲネスが世界を素朴に観察した上での、奴隷売買への一般化だ。具体的な事実から、売買の抽象的事実を見出している。そもそも、ディオゲネスは神託を与えられたとされていた。それは「ノミスマをパラハラッテインしろ」というものだった。私風に言い換えると「ノモス(法律; 因習; 習慣; 伝統)が本当に正しいものかどうか検めろ」ということだ。では、ノモス、ノミスマが本当に正しいかどうかを調べるためにはどうしたらいいのか?まずひとつ、世界を認識する自分自身の精神が明晰でなくてはならない。つまり、精神の明晰さが重要になる。それはad hoc(取ってつけたような)なものでは行けない。もうひとつ記憶している伝説に、プラトンとのやり取りがある。プラトンは人間を定義しようとして「裸で足があって爪がある生物」というたたき台を出した。それを笑ったディオゲネスは、鶏の羽根をもいで裸にして、プラトンに「じゃあこれも人間か」と返したそうだ。ここにも、精神の明晰性を求めると共に、本質主義的に何かを定義することが可能なのか、という問いかけがあるようにも見える。ディオゲネス・ラエルティオスは皮肉な“犬”であったが、他所では“狂ったソクラテス”とか“獣”と呼ばれていたようだ。私は彼に出会って*3から、わたしもそのような“犬”であろう。そう思ったのだ。彼の思想は実にロックで、ニーチェ的で(ニーチェが影響を受けた側なのだろうが)、私と親和性が高い。私は私財が恐ろしかったし、大嫌いだった。熱心な読者は私の着眼点をよく理解しているだろうが、やはり財の有無が私を苦しめてきたのである。財を持て余していた父の生活がどんどんと傾いて、私の存在と共に財の備蓄がどんどん失われていき、財がなければ米すら食べられないということをよくよく思い知らされた。食事も、教育も、清潔な寝床も、財なしでは得られない。”すっぱいぶどう”は、私をキュニコスに導いた。こうしてみると、私の心に作用するダイナミクスはごくごく単純なものだ。まさに、ないものについて「そんなのいらないよ」というのを突き付ける作用が、私にとってとても心良いものであり、かつ孤独、かっこつけていえば、高潔であった私に勇気をあたえるものだった。

 かくして、私は犬になった。ところで、もともとキュニコス的な犬だった私の”犬”はどんどんと一般化して、”犬”になった。社会的負け犬、捨て犬、野良犬、ありとあらゆる修飾を伴って、キュニコスの犬は”犬”になった。あるとき、私の心の芯の弱さ(ある面で言えば、強すぎたのかもしれない)によってあらゆる人間から搾取され、振り回され、心を病み、すべての生活が崩壊してとりかえしがつかなくなった。道路や車、階段、ドア、家の壁が溶けて、すべて地面の大きな水たまりになった。自分がいつ寝ているのか、いつ起きているのか、なんでまだ生きているのかわからなくなった。周りの人間はそれなりに就職し、進学し、労働者としての生活や大学生活をあくせくしているというのに、私だけ全ての時間軸がズレてしまい、すべてから取り残された。自分は何者でもない、自分は社会に認められないお荷物だと感じた。かつて、私は保護され、未来が期待される人間とされる時期があった。しかし、どんどんと年を取るにつれ、自分は自分を整えようとしている間にどんどん”生き遅れ”ていることが分かってくる。社会は倫理的な真実に興味がない。それをリマインドしてくれるのは、他でもない、ありとあらゆるSNSや、検索履歴の巨大なデータベースが教えてくれる、面白そうで間違った情報への尋常ならざる関心。大臣や芸能人の醜聞にあつまる関心である。いやいや、そんなことはどうでもいい。私が自分自身に、本心から”生き遅れている”と思わないとしても、非倫理的な一部の世間からすると事実、生き遅れているのだ。一つのことによしあしの両面が存在するにしても、あしの部分ばかり目についてしまうネガティブな”犬”である。見かけ上はかわいそうなおびえた犬だ。見かけ上であろうと、自己肯定感の高い人間が少し怖いと思う。私は犬だけど、さんざん人間に苛め抜かれたから、ずっと、近づきたくても近づいたら怖い、という感覚にさいなまれる。ニーチェが影響を受けた哲学者の一人、アルトゥール・ショーペンハウアーはかの有名な「ヤマアラシのジレンマ」の元となる議論を展開した。でも、私は”負け犬”あるいは”被虐犬”なので、人間がそこにいるだけで怪我をするまでもなく、可傷性に身をさらす以前にその気配を感じるだけで、すごすごと退散しようとしてしまうのである。たぶん。

 今日も負け犬として全てのギラギラした人間たちに目をつぶされて、背中を向けてトボトボあるく。でも、心の中に確かに存在する私のcynicは言う。「陥穽に気をつけろよ!*4

 

*1:山川偉也『哲学者ディオゲネス 世界市民の原像』(講談社, 2008)。

*2:いま何も見ずに書いているので、多少の勘違いがあるかもしれない

*3:言うまでもなく、書物を読む、という精神的な出会いであるが

*4:「おおい、”人間”よ!」「ちがう!私は”がらくた”を探しているんじゃない。人間をさがしているんだ!」人間が人間を探す自己言及を避けるため、自分を人間の外部に置く。