10月9日:明日はどこにある

 久しぶりにブログを書く。同時期に日記系のブログを書き始めた人が辞めてしまったのもあり、かなりモチベーションが下がっていた。今年の夏も暑かった。かと思えば、あっという間に10度台の日々が来た。今秋も始まったばかりだが、私の人生も秋に入ったかのような様相で、厳冬を目前にしているかのような気持ちでいる。ほとんどブログを書いていなかった9月から一か月かけて、ようやく夢野久作作品に触れるようになった。それを知り合いにいうと、「てっきり読んでると思ってた」と言われるほどには、夢野の作品から感じるものが私の根底にあるなにかと親和性が高いものであることを、作品を読めば読むほどに理解していった。特に、『ドグラ・マグラ』の正木博士、『犬神博士』の犬神博士には感情移入甚だしく、後者は中でも特段、ついつい自分に重ね合わせることが多かった。そしてこのようにして感情移入して読む行為は、結果的に自分自身の苦しみと悩み(というが、それは苦しみや悩みの顔をしていないので問題であったのだ)に寄り添うことになり、図らずも自分の過去と向き合う様々な機会を得た。そんなことをここにわざわざ書きつけるのもどうかと思うから、やめておこう。
 
 今、身の回りには読むべき資料、書籍がうずたかく三方に積み上げられている。こうした状況はもうかなり長い月日に及んでいるが、ここ数か月におけるこの重さの意味は全く異なる。人生も、私の中では折り返しを過ぎているから、今ここでできることを十全に成さなければならないはずなのだ。何をしているんだろう。私は。
 何も解決しない、進展しない問題に乾杯。私はなにによっても問題や未知に惹かれ続け、そこに歿するのだ。解決の快楽、好奇心の快楽という情動が私の石工となって墓碑を刻み、未解決の穴に身を投じるのだ。彼自身の人生などなかったかのように、ただ周辺に引っかき傷だけが残っている。