11月10日:Baby Lemonade

 Syd Barret“Baby Lamonade"を聴きながら銀座を歩く。この街を歩いていると、ヴァニラ画廊以外全てが自分とは異質で、全くそぐわないものであるかのような感じがする。だから、銀座に来ても私はチェーン店にしか入れない。ここは、一定の社会階級の人間、あるいは富裕層の外国人観光客が最も輝ける場所であり、少なくとも私のような人間には関係のない場所のように思える。気がつけばSydはもう、"Love Song"を歌っている。
 “罪のアントニム“は結局何だったっけな。少なくとも今の私にとって問題なのは、“貧しい“のアントニムだ。未だに、貧しさが本人の怠惰によるものだと考える人は、管見の限りでは多い。そういった、経済的構造の問題が、あたかも本人の能力の問題かのように誤認されることは、私の直感によればどんどんと増えると思う。世界が豊かになればなるほど、その時その時に生まれる人間のやる気を削ぐ。あるいは、極端に“成長“や“進歩“を嫌う人間が増えるだろう。人類が殖やそうとしてきた、人類そのもの、そして世界システムとなった資本主義における自己資本そのものに対するバックラッシュが生じる。現に、反出生主義や脱成長の思考が、平生でも身の回りにあるのが当たり前になりつつある。これからは、ある世代や思想を持つ人類にとっての“成長・豊富“の社会が、ある程度の豊かさを暗黙の前提とした人類によって“衰退・貧困“の社会に変えられる。とてつもない時代の転換点に、少なくとも2023年を生きている我々は立たされている。私たちの脳は、これまでの人類史の中でも1番長い自由時間を与えられている。バックラッシュを受け入れる、すなわち、これから脱成長し、みんながこれ以上地球を破壊せず、人権を蹂躙せず、労働を抑制する世界の到来を期待することも、この自由時間ありきのものである。ただし、現状のままでは、この経済体制におあつらえ向きの思考様式と解釈図式をもつ人間たちだけがどんどん富み、そうでない人間は体裁よく搾取し続けられることとなる。脳の自由時間と思想の自由さに対して、既存の経済体制を守ろうとするものはとてつもな強靭さを示している。それは、現状どう頑張っても“働かねば食っていかれない"の仕組みに人間を組み込み、本人の人生ではなく、組織の自己資本の増大という隠れた目標に従わせることが当然になっている日本の社会では、私たちが脳の自由時間を自由に謳歌しているふうに見せかけて、“平均的な人間の認知的負荷を超えたところに本当の目的を置いた“思想を吹き込んでいるからである。例えばそれこそ、「好きなことで生きていく」とか「転職して人生を変える」とか、そういった広告メッセージそれ自体が皮肉にも、労働中心主義と商業主義を全面にこさえている。
 私自身、どちらの側に立つわけでもない、現状、自分が安心して身を委ねることのできる着地地点を見つけておいて、そこに収まれば私自身はそれでいい。しかし、これまでの歴史で繰り返された、とある“思想↔︎反思想“の振動のうち、ちょうど真ん中あたりに、私たちがいる。でもいずれにしても、全て偶然的出来事だから、これからどうなるかはわからない。特に、“人類史“という一回性のものは。
 実際、正直言ってくだらないと思っている。